自分

自分はおそらく愛着障害者だ。
常に目に見える形で与えられるものでしか安心することができなかった。
人から愛されるという事に対して、全く自信が持てないので、いつもいつも、ともに過ごしている相手が笑っていないと、絶望的に不安になってしまう。
相手の肯定的な反応しか良しとできないのである。
私の長年続いている認知の歪みは、それを、「相手のことを思い遣れている」として、私を「相手が幸せであるという状態を常に願っている良い恋人である」と錯覚させていた。
その認知の歪みが、おそらく全ての原因である。
こんなに想っているのに、なんで幸せそうにしてないの?
多くの人が、一度は近づいても、そんな私に疲れて離れていったと思う。


誰かを愛するという事は、相手の意識を認識して、尊重することだ。
決して、自分の意識を押し付け強要することではないのだ。
しかし私は、相思相愛の関係になった瞬間から、途端に、愛されることばかりに敏感になり、もし自分の期待通りにいかないことが起これば、もれなく相手の意識を忘れる。忘れたまま、どうしようもなく幼稚で独りよがりな糾弾をする。
なんで私の感情を無視するの?
なんで私が悲しいと思うことをするの?

まず私が、いつもその時に考えなければならなかったのは、相手の気持ちだ。
相手にとっての喜び、相手にとって何か嬉しいか、それを考える。
そしてそれは、世間一般にみて常識的かそうでないかを考える。
自分の抱いた感情を、「伝えるか伝えないか」をまず熟考すべきであったのだ。
私は、恋人である自分は、それを伝えるべき権利があると思い込んでいた。
しかしそういう事ではない。根本的に違う。

人と行動をともにすれば、自分にとって都合の良くないこと、自分にとって不快なことが起こるのは当然なのだ。それは恋人であっても当然なのだ。だから、抱いた感情すべてをいちいちぶつけていては、キリがないのだ。
相手も自分も辛くなるだけ。

相手のことを思い遣るということは、そういう時に、相手の意識を尊重できるかどうかなのだ。
決して、自分にとって不快ではない事だけは過剰なまでに肯定し
そして、自分にとって不快なことを全て伝え理解してもらおうとする
ということではないのだ。

私はそんな基本的なこともできていなかった。
しかしここで考えるべきは、

ああ、自分ができなかった、できなかった、できない、苦手
という事ではない。 

私が、それをできていないという事は

私の恋人は、そんな基本的なことさえ、全く与えられずにいたということである。
それは、どれほど悲しいことなのだろうか。
私は常に私の感情という漠然とした衝動で、私の恋人の自由な意志を侵害してきた。
なので、私の恋人は、その自由な意志を、人生を少しでも良いものにしよう、楽しもう、とする当たり前の行動を、常に私の感情という、ただそれだけによって侵害されていたということだ。