12/3

とうとう脳にもガンが転移していたらしい
それを聞いてからバイト中もずっと泣きじゃくってしまった
笑顔が一番嬉しいだろうから、ひと目会って笑いかけてあげようと思い病院に向かったが、全くご飯を食べなくなってしまったらしい祖母(正しくは祖母の食事管理表)を見て、また涙が止まらなくなってしまった。

私が耳元で大号泣してしまったせいで、祖母はびっくりしてしまった
慌てて祖母から引き離されたが、祖母は私の方を見て、手を伸ばしてきてくれていた
大丈夫大丈夫と

ああ、どうかこの人がこのまま、人らしいままに逝けますように

12/1

前の日曜日に、急に祖母が一人で歩けなくなった。
彼女が肺ガンを宣告されてからほぼ半年のことだったが、それまでは食が細くなっていたものの、祖母は確かに自分で歩いて生活をしていた。2月に転倒した際に痛めていた腰や、ガンからくる体中の痛さのために、健常的な老人ほど動けていた訳ではなかったけれど、それでも自分で自分の事はできていたと思う。思うというのは、私がここ半年の間、実家から離れて生活をしていたので、あくまで週に1、2回実家に通っていた時の事しか把握できていないためである。しかし、常に彼女と暮らしていた祖父や母の驚きようを見るに、恐らくあの日曜日の出来事は、「急変」といって間違いはないのだろう。

11/27 日曜日 12:00ごろ
祖母は好物のうどんを殆ど受け付けなかった。
母から事前に、「2日ほど前から食がとんと細くなった」と聞かされていたが、実際に3〜4本ほど口にして「あとは○○(私の名前)が食べ」と私にどんぶりを渡す祖母を前にしたら、流石にかなり動揺してしまった。母も驚いたようで、「もっと食べなきゃだめじゃない」と涙を流していた。
私は祖母の残したうどん(元々1/3人前ほどの量しかなかった)を食べたあと、誰もいない1階のリビングに戻り、用意していた味噌煮込みうどんを作ろうとしたが、なんとなく食欲が減退し、そのまま鶏肉を冷凍庫に戻して昼寝をした。

11/27 日曜日 14:30すぎ
昼寝から目覚めた。祖父が祖母を連れて3階から降りてきたからだ。身体を支えられて移動している祖母を見たのは、2月に転倒したとき以来だったので、私も母も「これは」と直感した。祖父が言うには、祖母がトイレから出た際にふらつき、慌てて支えたところ、「お風呂に入りたい」といって聞かず、風呂場がある1階へ、肩を貸しながら降りてきたそうだ。祖母が風呂に入る時間は昔から4時半すぎと決まっていた為に、その発言もまた彼女の変化を予見させた。(母曰く、この1日前に二人で風呂に入った際、本当に気持ち良さそうにしていたとのこと)
なんとか祖父と母と私の3人でなだめ、ソファに寝そべらせ、今のふらつき方じゃ風呂は無理だと納得させた。会話はあまり円滑に進まなかった。心配した祖父が家族の名前を一人一人挙げて確認をとったが、今年の8月に産まれ、週3回顔を合わせ、彼女自身大切そうに楽しそうにあやしていた曾孫の名前だけが判らなかった。これは大事なので病院へ行こうと提案したところ、語気強く「明日行く」の一点張りで聞こうとしない、他の会話はうわ言のようにしか返せないのに、病院へ行く事だけ強く拒否していた。
しかし、朦朧とした様子が目に見えて酷くなったので、私たち3人の意思で救急車を呼んだ。

祖母は抗癌治療を何一つ受けていない。それは祖母の希望だった。自然なまま、家族のいる自宅で最後の時を過ごしたいという彼女の意志を尊重し、私達家族はみなそれを支える覚悟をしていた。

こう思い返せば、私は今でも何が正しかったのかわからない。
ただこの日曜日から今日までの数日間の、祖母と過ごした時間が愛しいので、この時救急車を呼んだのは、不正解ではなかったと思いたい。思いたいからこうして、更新の滞っていたブログにわざわざ書き込んでいるのだろう。今でもわからない、きっともっともっと長い時間が経過して、はじめて自分の中で整理がつく種類の物なのだろう、きっと。
今は2016/12/1
祖母が入院してから5日ほど経った。ここ5日間毎日家族で交代して祖母を介助している。今はまだ簡単にしか書けないけれど、簡単にでも書いて、忘れないようにしたい。

12/27
祖母が搬送された、なんと熱が39度近くあったらしい。そりゃあ朦朧とするわ。抗生剤を投与され、熱が下がった祖母に曾孫のことを再度問うたら、「○○(曾孫の名前)なん忘れるわけないやろ」と逆に怒られてしまった。嬉しくて涙が出た。
祖母の運ばれた部屋は救急病棟の個室
祖母は酸素と栄養が足りていないようで、酸素チューブと点滴がつけられた。心拍数を管理する管もつけられた。

12/28
祖母が大部屋に移動となった。救急病棟は、部屋の移動が容態ごとで忙しなく変わるらしい。気を遣う祖母なので、きっとこれは本当にストレスになっただろうと思う、「今までで一番痛かった」と後で言っていたが、この夜祖母は激痛に苦しんだ、私と母でずっと擦ってあげた。
この日祖母は病院食を殆ど食べなかったように思う。

12/29
一般病棟の個室に移動した。祖母も家族も、みな嬉しそうだった。個室になったので曾孫(私にとっては甥っ子)を連れて姉が見舞いに来た。曾孫の顔を見て嬉しそうにする祖母を見て、私は日曜日の事を思い出した。忘れていなくてよかった。あれは高熱で朦朧としていただけなのだ、と、初めて実感をもって納得できた。
この日から祖母はメロンを口にするようになった。病院食は相変わらず2割ほどしか食べられなかった。

12/30
祖母はメロンを美味しそうに食べ(8分の1ほど)、牛乳を飲んでいた。この日からトイレに行く際に看護師を呼ばなくても良くなったので、祖母が遠慮せずに水分をとってくれるようになった。本当に気にしいな人だなあと思った。昼は祖父が買って来たトロ鉄火を1本ほど食べた。夜は殆ど食べなかった。
痛みを抑える薬がまた増えた。

12/1
久しぶりに介助から外れ、自分の用事をしていいとの事で、なんやかんやこの日は夕方まで色々していたので、祖母に会うのは殆ど24時間ぶりだった。祖母は目に見えてボーッとしていた。薬が増えたからだろうか、寝ては目を開け寝ては目を開け、しかしご飯は五分食の三分ほど食べていた。
昨日と違い、なかなか会話が続かなかった。

いろんな思いがある、いろいろ書きたい。
祖母を介助する母は、まるで子をあやすようにしている。祖父は本当に祖母を愛しているんだろうなあとわかった。姉は母親になったんだなあと思った。中々会話をしてこなかった祖父が、私を「しっかりしている」と認識してくれた。しかしそんな中で、日に日に自分の気持ちは沈んでいく。家族は好きだけれど、少し苦しい。しかし祖母には、また元気になってもらいたい。家に一緒に帰りたい。一緒に帰って、また祖母と相撲を見たい。

医者は2週間で退院という予定で治療しているようだ。

なーんか

いろんなことが憂鬱で、そんでも、プライドだけが気持ち悪いくらい高くて、ミョーに焦って、いろいろ

人間の形をした、ドロドロして大きな、自意識というエネルギーの塊
そんな物体だったかな

(あれ?おかしいな?、こんなはずじゃないのに、こんなはずじゃないのに)
こうやって、ずーっと、頭の片隅でパニックになってた

いまは、お薬飲んでボケッとしてる
お母さんといろいろお話した
優しい、だいすき

お医者さん曰く、頭が疲れちゃったみたい
簡単に言えば
いま骨折してるのと同じなんだね
使えば使うほどよくないから
まず安静に
ほんで、良くなってきたら
リハビリ
いまは休む時

一つ一つできることを精一杯やっているのだから、仕方ないよね
ゆっくりこつこつ、頑張らないと
だけど焦ってしまうのは
君を傷つけるのが辛いからなんだろうな…

さて、すぐに泣いてしまうことに関して、お医者さんにかかったので、そこで言われた要因を大別すると

・ホルモンバランス
・防衛反応

とのことだった

前者は、私の身体的な欠陥であるため、投薬で対処する必要がある。これはもう対処済だ。

後者は、過度なストレスに対する反応であるため、ストレッサーを除く必要がある。
自分が泣いてしまう状況で一番多いのは、恋人からの発言を受けたときだ。
うん、だから、認知行動療法が一番いいだろう。
最近は、毎日少しずつだが進めている。
今日は、ここでやってみる。

まず価値観が違う、
これは、本当に大きく違うと思う。
私は私の行動や発言を省みる限り、自分には、すべての事物、人に縦の順位がついているように思う。
しかし彼は、そういうわけではない。
彼にとってやりたいこともやるべきことも恋人も友人も一人の時間もすべて大切なものだ。何か一つが欠けてしまえば、きっととても辛いのだろう。

私はおそらく、下位に位置するものが無くても、それを上位のもので補うことができる。
例:一人(下位)の時間がなくても、
     恋人(上位)と居られれば平気

彼にとって、きっと今、他の時間と比べて、恋人との時間は飽和しているように感じる。
飽和という単語をここで使って、妙にしっくりした。
そうだ、きっと彼の中では「比」なんだと思う。
他のものと比較して、相対的にどうかで精神的な負担が変わってくるんだろう。

私は、私と彼の関係を円滑に、そして実りあるもので有り続けるようにするため、その比を整える努力をする必要がある。
二人の人間が存在する関係なのだから、独りよがりで上手くいくはずがないのだ。

自分

自分はおそらく愛着障害者だ。
常に目に見える形で与えられるものでしか安心することができなかった。
人から愛されるという事に対して、全く自信が持てないので、いつもいつも、ともに過ごしている相手が笑っていないと、絶望的に不安になってしまう。
相手の肯定的な反応しか良しとできないのである。
私の長年続いている認知の歪みは、それを、「相手のことを思い遣れている」として、私を「相手が幸せであるという状態を常に願っている良い恋人である」と錯覚させていた。
その認知の歪みが、おそらく全ての原因である。
こんなに想っているのに、なんで幸せそうにしてないの?
多くの人が、一度は近づいても、そんな私に疲れて離れていったと思う。


誰かを愛するという事は、相手の意識を認識して、尊重することだ。
決して、自分の意識を押し付け強要することではないのだ。
しかし私は、相思相愛の関係になった瞬間から、途端に、愛されることばかりに敏感になり、もし自分の期待通りにいかないことが起これば、もれなく相手の意識を忘れる。忘れたまま、どうしようもなく幼稚で独りよがりな糾弾をする。
なんで私の感情を無視するの?
なんで私が悲しいと思うことをするの?

まず私が、いつもその時に考えなければならなかったのは、相手の気持ちだ。
相手にとっての喜び、相手にとって何か嬉しいか、それを考える。
そしてそれは、世間一般にみて常識的かそうでないかを考える。
自分の抱いた感情を、「伝えるか伝えないか」をまず熟考すべきであったのだ。
私は、恋人である自分は、それを伝えるべき権利があると思い込んでいた。
しかしそういう事ではない。根本的に違う。

人と行動をともにすれば、自分にとって都合の良くないこと、自分にとって不快なことが起こるのは当然なのだ。それは恋人であっても当然なのだ。だから、抱いた感情すべてをいちいちぶつけていては、キリがないのだ。
相手も自分も辛くなるだけ。

相手のことを思い遣るということは、そういう時に、相手の意識を尊重できるかどうかなのだ。
決して、自分にとって不快ではない事だけは過剰なまでに肯定し
そして、自分にとって不快なことを全て伝え理解してもらおうとする
ということではないのだ。

私はそんな基本的なこともできていなかった。
しかしここで考えるべきは、

ああ、自分ができなかった、できなかった、できない、苦手
という事ではない。 

私が、それをできていないという事は

私の恋人は、そんな基本的なことさえ、全く与えられずにいたということである。
それは、どれほど悲しいことなのだろうか。
私は常に私の感情という漠然とした衝動で、私の恋人の自由な意志を侵害してきた。
なので、私の恋人は、その自由な意志を、人生を少しでも良いものにしよう、楽しもう、とする当たり前の行動を、常に私の感情という、ただそれだけによって侵害されていたということだ。