12/1

前の日曜日に、急に祖母が一人で歩けなくなった。
彼女が肺ガンを宣告されてからほぼ半年のことだったが、それまでは食が細くなっていたものの、祖母は確かに自分で歩いて生活をしていた。2月に転倒した際に痛めていた腰や、ガンからくる体中の痛さのために、健常的な老人ほど動けていた訳ではなかったけれど、それでも自分で自分の事はできていたと思う。思うというのは、私がここ半年の間、実家から離れて生活をしていたので、あくまで週に1、2回実家に通っていた時の事しか把握できていないためである。しかし、常に彼女と暮らしていた祖父や母の驚きようを見るに、恐らくあの日曜日の出来事は、「急変」といって間違いはないのだろう。

11/27 日曜日 12:00ごろ
祖母は好物のうどんを殆ど受け付けなかった。
母から事前に、「2日ほど前から食がとんと細くなった」と聞かされていたが、実際に3〜4本ほど口にして「あとは○○(私の名前)が食べ」と私にどんぶりを渡す祖母を前にしたら、流石にかなり動揺してしまった。母も驚いたようで、「もっと食べなきゃだめじゃない」と涙を流していた。
私は祖母の残したうどん(元々1/3人前ほどの量しかなかった)を食べたあと、誰もいない1階のリビングに戻り、用意していた味噌煮込みうどんを作ろうとしたが、なんとなく食欲が減退し、そのまま鶏肉を冷凍庫に戻して昼寝をした。

11/27 日曜日 14:30すぎ
昼寝から目覚めた。祖父が祖母を連れて3階から降りてきたからだ。身体を支えられて移動している祖母を見たのは、2月に転倒したとき以来だったので、私も母も「これは」と直感した。祖父が言うには、祖母がトイレから出た際にふらつき、慌てて支えたところ、「お風呂に入りたい」といって聞かず、風呂場がある1階へ、肩を貸しながら降りてきたそうだ。祖母が風呂に入る時間は昔から4時半すぎと決まっていた為に、その発言もまた彼女の変化を予見させた。(母曰く、この1日前に二人で風呂に入った際、本当に気持ち良さそうにしていたとのこと)
なんとか祖父と母と私の3人でなだめ、ソファに寝そべらせ、今のふらつき方じゃ風呂は無理だと納得させた。会話はあまり円滑に進まなかった。心配した祖父が家族の名前を一人一人挙げて確認をとったが、今年の8月に産まれ、週3回顔を合わせ、彼女自身大切そうに楽しそうにあやしていた曾孫の名前だけが判らなかった。これは大事なので病院へ行こうと提案したところ、語気強く「明日行く」の一点張りで聞こうとしない、他の会話はうわ言のようにしか返せないのに、病院へ行く事だけ強く拒否していた。
しかし、朦朧とした様子が目に見えて酷くなったので、私たち3人の意思で救急車を呼んだ。

祖母は抗癌治療を何一つ受けていない。それは祖母の希望だった。自然なまま、家族のいる自宅で最後の時を過ごしたいという彼女の意志を尊重し、私達家族はみなそれを支える覚悟をしていた。

こう思い返せば、私は今でも何が正しかったのかわからない。
ただこの日曜日から今日までの数日間の、祖母と過ごした時間が愛しいので、この時救急車を呼んだのは、不正解ではなかったと思いたい。思いたいからこうして、更新の滞っていたブログにわざわざ書き込んでいるのだろう。今でもわからない、きっともっともっと長い時間が経過して、はじめて自分の中で整理がつく種類の物なのだろう、きっと。
今は2016/12/1
祖母が入院してから5日ほど経った。ここ5日間毎日家族で交代して祖母を介助している。今はまだ簡単にしか書けないけれど、簡単にでも書いて、忘れないようにしたい。

12/27
祖母が搬送された、なんと熱が39度近くあったらしい。そりゃあ朦朧とするわ。抗生剤を投与され、熱が下がった祖母に曾孫のことを再度問うたら、「○○(曾孫の名前)なん忘れるわけないやろ」と逆に怒られてしまった。嬉しくて涙が出た。
祖母の運ばれた部屋は救急病棟の個室
祖母は酸素と栄養が足りていないようで、酸素チューブと点滴がつけられた。心拍数を管理する管もつけられた。

12/28
祖母が大部屋に移動となった。救急病棟は、部屋の移動が容態ごとで忙しなく変わるらしい。気を遣う祖母なので、きっとこれは本当にストレスになっただろうと思う、「今までで一番痛かった」と後で言っていたが、この夜祖母は激痛に苦しんだ、私と母でずっと擦ってあげた。
この日祖母は病院食を殆ど食べなかったように思う。

12/29
一般病棟の個室に移動した。祖母も家族も、みな嬉しそうだった。個室になったので曾孫(私にとっては甥っ子)を連れて姉が見舞いに来た。曾孫の顔を見て嬉しそうにする祖母を見て、私は日曜日の事を思い出した。忘れていなくてよかった。あれは高熱で朦朧としていただけなのだ、と、初めて実感をもって納得できた。
この日から祖母はメロンを口にするようになった。病院食は相変わらず2割ほどしか食べられなかった。

12/30
祖母はメロンを美味しそうに食べ(8分の1ほど)、牛乳を飲んでいた。この日からトイレに行く際に看護師を呼ばなくても良くなったので、祖母が遠慮せずに水分をとってくれるようになった。本当に気にしいな人だなあと思った。昼は祖父が買って来たトロ鉄火を1本ほど食べた。夜は殆ど食べなかった。
痛みを抑える薬がまた増えた。

12/1
久しぶりに介助から外れ、自分の用事をしていいとの事で、なんやかんやこの日は夕方まで色々していたので、祖母に会うのは殆ど24時間ぶりだった。祖母は目に見えてボーッとしていた。薬が増えたからだろうか、寝ては目を開け寝ては目を開け、しかしご飯は五分食の三分ほど食べていた。
昨日と違い、なかなか会話が続かなかった。

いろんな思いがある、いろいろ書きたい。
祖母を介助する母は、まるで子をあやすようにしている。祖父は本当に祖母を愛しているんだろうなあとわかった。姉は母親になったんだなあと思った。中々会話をしてこなかった祖父が、私を「しっかりしている」と認識してくれた。しかしそんな中で、日に日に自分の気持ちは沈んでいく。家族は好きだけれど、少し苦しい。しかし祖母には、また元気になってもらいたい。家に一緒に帰りたい。一緒に帰って、また祖母と相撲を見たい。

医者は2週間で退院という予定で治療しているようだ。